|
相良丸(さがらまる)は、日本郵船の崎戸丸型(S型)貨物船の六番船〔。太平洋戦争では日本海軍に徴傭されて特設水上機母艦、特設運送艦として運用された。母艦搭載機数は八機(九五式水偵二機、零式観測機六機)。 ==概要== 相良丸は、ニューヨーク航路用の長良丸級貨物船(通称N型貨物船)6隻、リバプール航路用の赤城丸級貨物船(通称A型貨物船)5隻に続いて建造された崎戸丸級貨物船〔(通称S型貨物船)の一隻として、1940年(昭和15年)11月15日に三菱重工業横浜船渠で竣工した。しかし、崎戸丸級貨物船が就役する頃には第二次世界大戦が勃発するなど国際情勢が厳しくなり、また1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟が締結されると日米関係も微妙なものとなった〔#郵船100年史p.206〕。そこで、ニューヨーク航路からは保全のために優秀船を引き上げて旧型船を配した〔。相良丸もニューヨーク航路に代えてシアトル航路に就航する予定だったが〔#郵船戦時上p.289〕、当時の情勢は相良丸に商業航海の機会をついに与えなかった。 1941年(昭和16年)1月16日付で日本海軍に一般徴傭され、マリアナ方面への兵器輸送任務に就く〔。9月11日付で改めて徴傭され、9月20日付で特設水上機母艦として入籍〔。10月31日まで三菱重工業長崎造船所で艤装工事を受けた後〔、三亜に進出。12月3日に三亜を出撃して12月5日にに到着し、同島に水上機基地を設営した〔#相良丸(1)p.3〕。緒戦のマレー上陸作戦では輸送船団に対する対潜警戒および、艦載機によるイギリス軍宿営地爆撃を行う〔#相良丸(1)p.6〕。12月10日にシンゴラ近海に到着後は、シンゴラを拠点として引き続き対潜哨戒に従事し〔#相良丸(2)p.10〕、1942年(昭和17年)1月26日にはアナンバス諸島に移動して〔#相良丸(3)p.36〕パレンバン攻撃支援などを行った〔#相良丸(3)p.37, pp.39-40〕。2月21日付で第一南遣艦隊(小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)主力部隊に編入され〔#相良丸(4)p.3〕、昭南(シンガポール)に進出して昭南近海やマラッカ海峡方面で艦載機による対潜哨戒、機雷および水中障害物の捜索を行う〔#相良丸(4)p.4〕。3月9日にはペナンに到着して水上機基地設営の後、スマトラ島北部〔#相良丸(4)pp.4-5〕、アンダマン諸島方面の作戦に協力〔 #相良丸(3)pp.23-24〕。一連の作戦が一段落した6月14日、ケッペル港第三船渠に入渠して福井静夫技術少佐の考案による迷彩塗装が施された〔#相良丸(6)p.46〕〔#日本の軍艦4p.205〕。整備終了後は再びマラッカ海峡、アンダマン諸島方面での対潜哨戒に従事した。この後、12月1日付で特設運送艦に類別変更される事が内定したため、搭載航空機を東印部隊に移管した〔〔#相良丸(7)p.3,47〕。 横須賀に帰投後〔#郵船戦時上p.290〕、1943年(昭和18年)に入ってからはニューギニアの戦いに投入される陸軍将兵を輸送する丙号輸送作戦に従事する。丙一号輸送では、同じく特設水上機母艦から特設運送艦に転じていた讃岐丸(日本郵船、9,246トン)や第九戦隊(岸福治少将・海兵40期)の軽巡洋艦、大井および北上とともに第一輸送隊に属し、第二十師団(青木重誠中将)を釜山からパラオを経由してウェワクまで輸送〔#丙号輸送部隊p.7〕。丙三号輸送でも第九戦隊、讃岐丸および特設巡洋艦護国丸(大阪商船、10,438トン)とともに第一輸送隊に属して、第四十一師団(阿部平輔中将)主力を青島からウェワクまで輸送した〔#丙号輸送部隊p.8〕。丙号輸送作戦終了後は通常の輸送任務に就いた。 昭和18年6月23日未明、相良丸は駆逐艦澤風護衛の下に〔#SS-257, USS HARDERp.34〕の神子元島沖を航行中、アメリカの潜水艦ハーダー (''USS Harder, SS-257'') の魚雷攻撃を受けた。ハーダーは魚雷を4本発射して1本しか命中しなかったものの〔#SS-257, USS HARDERp.36〕、損傷は大きく航行不能となった〔#郵船戦時上p.291〕。相良丸は澤風に曳航されて〔#SS-181, USS POMPANOp.135〕の天竜川河口に座礁後、浮揚作業が試みられた〔。しかし作業は進捗せず、7月4日にはアメリカの潜水艦ポンパーノ (''USS Pompano, SS-181'') からの更なる魚雷攻撃を受けて魚雷2本が命中し〔#SS-181, USS POMPANOp.127, pp.135-136〕〔、さらに激浪に翻弄されて船体の維持は困難を極める。7月14日、第26号駆潜特務艇が調査のため接近し、船橋直前より前部が屈曲しているのが確認された〔#伊勢防1807p.29〕。相良丸の復旧は断念されて9月1日付で船体放棄され〔〔#郵船100年史p.269〕、除籍と解傭も同日に行われた〔。相良丸の不幸中の幸いは、乗員の喪失が一人もなかった事である〔。 なお、崎戸丸型貨物船7隻のうち、相良丸以外の6隻は減トン甲板口〔「遮浪甲板を有する船において、総トン数算定の際、遮浪甲板と上甲板間の容積をトン数から除外するため設けられる開口部」(#郵船戦時上p.291)〕を閉鎖して総トン数など主要目の数値が一部増加しているが、相良丸のみそのような措置はとられなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相良丸 (特設水上機母艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|